「時間」は本当に絶対的なものなのか

Time

みんなパターン化された人生を送っている

良いか悪いかは別として、私たちは毎日、毎週、毎年同じことを繰り返して生きている。

サラリーマンが1番分かりやすい例で、毎日決まった時間におき、満員電車に揺られ、1日決まった時間働き、帰宅する。といったことを毎日繰り返している。日々の内容は当然異なれど。

金曜になると、花金ということで日頃のストレスの発散で飲み騒ぐ。土日は普通に休み、日曜にはいわゆるサザエさん症候群が発症し「明日からまた仕事嫌だなぁ」と思いながら月曜を迎える。といったことを毎週繰り返している。

そして上記のようなことを、個人差はあれどみんな何十年もの間繰り返すことになる。多くの人が、日次、週次、年次ベースでパターン化された人生を送っている。

分かりやすいのでサラリーマンを例として使ったが、ごくごく少数の人種を除けば、みんな似たような感じだろう。

個々人だけではなく、企業も同じだ。上場企業は1年を一区切りとして毎四半期決算を行う。株価などを気にして企業は毎回それに一喜一憂するわけだが、一方で期間をちゃんと定めているからこそ、成長を高頻度で可視化できるという側面もある。逆に「期間」が存在しなければ時系列で比較対象とする業績もなくカオスだろう。

更に大きなスケール、人口全体でみても、1年は1月に始まり、5月にはゴールデンウィークがあり、12月はクリスマスがあって大晦日はカウントダウン、というパターンを毎年繰り返している。もちろん国や宗教などによって違いはあるが。

というかそもそも、「朝」がくると起きて、「昼」にはランチを食べ、「夜」になると寝るという「常識」そのものがパターンになっている。

まとめれば、人々、企業、国の1日、1年は毎回異なる内容だが、「時間」ベースでみれば誰しも一種のパターンにのっとって存在している。

時間は絶対的なものか

言い換えれば我々は「時間」に縛られているということだ。つまり「時間」は絶対的なもので、左から右に流れていくものに我々はただ乗っかって生活を合わせているだけだと思って(思い込んで)いる。(アインシュタイン的な話は難しいのでここでの「絶対」の定義はもっと曖昧)

多くの人にとって重要な資源は、お金と時間だと思う。お金は働けば稼げるし、投資をして増やすことも、節約をして減らさないこともできる。一方で、時間は増やすこともできず「減って(?)」いく一方である。確かに「時間」はすごく重要、絶対的なものに思えてならない。

本当にそうなのだろうか?と私は最近疑問に思う。左から右に流れていく「時間」にただ私たちは乗っかっているだけなのかと。確かに私たちの体は「時間」と共に確実に老いていくし、周りの人もテクノロジーもどんどん変わっていく。しかし、本当に「何かが流れている」のだろうか?実は未来永劫、定常的なものである可能性はないのだろうか?

1日が24時間ということも、1年が365日ということも、今が2016年だということも、大雑把に言ってしまえば人間の都合で勝手に決めたことである。というか1秒が「1秒」であるのも、人間が便宜的に決めたものだ。

物理の「光の速度」もファイナンスの「現在価値」も日常生活での「電車の到着時間」も全部「時間」無しでは語れない。しかし、時間は「リンゴを手から離すと下に落ちる=重力」のように、絶対的に存在する真理と違い、あると便利なものに過ぎない。つまり現代社会においてはクレイジーな発想と思われること間違いないが、「時間」は無くても差し支えないものだよと。

だから一度試してみたいのは、カレンダーも時計も全て捨て去り、「時間」から独立した生活を送ってみることだ。太陽が上がったから「朝」だとか、下がったから「夜」だとかも気にしない。「何かが流れている、経過している」という感覚を完全に消す。そしたら「時間」についてもっと分かることがあるかもしれない。

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